おかげの泉 第八号 昭和四十五年六月二十日 朝の御教話より

X御理解 第一節 「今天地の開ける音を聞いて眼をさませ」

 今天地の開ける音というのはあっておるのだ。そういう働きがあっておる、その音を聞いて初めて眼がさめた。
 放蕩に身をもち崩したら、例えばもういよいよ金の貸してくれ手もない、人が相手にもしてくれない、その時に初めて眼がさめた。使う金のある間はなかなか眼がさめない。いくら言うて聞かせても聞かせてもそげな事しよるお今に大変な事になるぞ、今にそういう事をしょったら立ち行かんごとなるぞと言うて聞かせても聞かせても、眼がさめなければ仕方がない。そしていよいよ金もなくなり、人の信用もなくなってしもうて,初めて眼かさめた。
 こういう自分の過去、言わばこういう生き方、こういう事では行詰まるんだ、不幸せになるんだと、初めて眼がさめる。
 天地の開ける音を聞いて眼をさます、という眼をさまさせて頂いからどういう事になるだろうか、いわゆる金乃神の大徳に洩れるところはなきものぞとおっしゃる天地の大徳、又は神の大恩がわかります。
 だから、天地の大徳が悟れるところから、天地の大恩がわかる。神の大恩がわかる まず天地の大徳を悟らせてもらうおかげを頂かねばならん。それにはね、どういう精進をさせて頂くか、どういう信心をさせて頂くか。
 金光大神のお取次を頂いて、天地金乃神のおかげを受けられるようになったとおっしゃるそのおかげを受けていくという事と、天地の開ける音を聞くという事は違う。 一生かかって信心させて頂いておっても、天地の開ける音を聞けず悟れずに、終わっていく人もたくさんあろう。ですから、天地の開ける音を聞いて眼をさますという事は、初めて、眼がさめたというところからです、いわゆる新たな生き方、今迄の生き方では、行詰ったんだから、そこに眼がさめて、初めて今迄の生き方と、全然反対の生き方、そこから例えば、行詰ったり、信用を落としてしもうたり致しましても、そこから今迄とは違った新たな道が開けてくる、それには、只今申します、天地の大徳を悟る、神の大恩がわかるおかげ、そういうおかげを頂かしてもらう事の為に、先ず自分自身がわからなければいならない。
 自分自身の姿というものがわかる。これは、自分が自分を見る事ですから、天地の大徳、神の大恩やらはわからんでも、話を聞いてはわかるけれども、音を聞いて眼をさますという程しのわかり方は出来ぬ。けれども、自分自身をわかるという事は、自分という者をながめてみる、自分という者を掘り下げてみる、自分という者の姿を教えという鏡に写してみる、そこに自分の姿がだんだん歴然としてくる。
 そこからですね、自分がわかった、分に応じた生き方、自分の年齢も考えずにやたらに派手な着物を着たら、おかしいですね。まず自分自身の年齢というものを考える まず自分の言うならば、姿、恰好というものを鏡に写してみて、その自分の年齢に応じた着物を着てみた時に、ピッタリした言わばおかげが受けられるように、私共の分に応じた生き方をするという事はね、自分にピッタリのおかげが受けられる。
 これはもう本当にそうです。そのピッタリとですねぇ、自分に合ったおかげが受けられるところにです、神の大恩がいよいよはっきりしてくる。天地の大徳というもが翻然として悟られてくる。こういう生き方があった、こんなにもピッタリ合う生き方があったと、私はそういう事が悟れた時が、天地の開ける音を聞いた時であり、眼をさました時だと思う。
 ですからもう、自分につり合わないようなものは、とてもおかしゅうて身につけられないように、言わば自分にピッタリしたものでなからなければ、馬鹿らしゅうなってくる訳です。いわゆる神様のおかげをおかげとして、いわゆる実感を以て、ひしひしと心に感じる事が出来る。そこに、神の大恩もわかれば、そういう生き方が育ったと、わかった時です、私は天地の開ける音を聞いて眼をさました時だと思う。
 そこからの生き方、そこからの精進、それがいよいよいわゆる信心の展開を願っての信心というものが・・・・
 自分というものがわかる。そこからそれにふさわしい、それにピッタリと合ったおかげの中に、人間生活のおかげを頂かしてもろうて初めて、神徳の中に生かされてあるんだなという事がわかる。
 我身は神徳の中に生かされてあるのだと、神様のこのようにも間違いのない、ピッタリ自分の身に合う程しの、神様のお恵み、御恩、恵みの中にあるんだなあという事がわかる。自分を知らずに言うならば、自分はまあだ二十才なら、二十才といたかましょうか、それに五十にもなるものの、着物を欲して、ああいうものを下さいと・・ こういうお取次を頂いて、お願いをして、おかげをやらんと、氏子がやはり承知せん、ですから神様が下さったと致しましても、そのおかげは決して、だから、ピッリリとしたおかげになって来ない。月日が過つと、あれは運がよかったのじゃろうぐらいになってくる。お願いをして、おかげを頂く、そういうおかげを頂いて、一生終わったところで、天地の開ける音を聞いて眼をさまさぬ生き方は信心ではない。
 私共がね、高橋正雄先生の有名な言葉の中に「見ること見ること自分を見ること」と、言うておられますね、人ではない、周囲ではない、自分自身を見ることだと、自分というものをいよいよ見て見抜くことだと、自分をよう見抜かないところに、思い上がりがあるんだと。いわゆる食べる資格もない、着る資格もない、今の自分というものをぎりぎり見極められたところから、高橋先生の信心は始まっておると私は思います。私共もやはりそうだったように思います。終戦引き上げ、そこに待っておった貧困、それを私共は敗戦のせい、戦争に負けたから、又はお国がこのような難儀な状態になったから、私共がこのように難儀をしとるというふうには見なかった。お国のせいにはしなかった。そこにある自分のその実態というもの、それが今のお前に丁度ふさわしいんだという行き方、自分がいよいよ難儀なところに行って眼がさめたという事。それまでは永年、信心しておって、お取次を頂いて、やはりおかげを頂いてきた。だから、ああいうおかげがです、例えばもし、一生続いたに致しましても、それはピッタリしたおかげ、我身は神徳の中に生かされてあるんだなという程しのおかげは到底頂けなかったでしょう。
 言うならば、敗戦のおかげで、お国が乱れに乱れておった時代のおかげで、私という者を見極めることが出来た。その見極めるという事が世の中が、こういう世の中になったから、自分達がこういう食うにも食われん、着るにも着られん事になったんだというふうに、世をはかなみ、人を恨むと、いったような事ではなくて・・・・・
 初めてぎりぎりのところに立たしてもろうた時に、初めて眼がさめた。そしてですこれからは、いわゆる本当の生き方、今迄の生き方とは全然ちがった生き方、自分にふさわしい生き方、そんなら、そういう事になったらどういう事になったかと言うと結局着る資格のない私、食べる資格のない私と言うことになった。
 そこで着ない訳にはいかん、食べぬ訳にはいかんから、夏も冬もない、夏服一着で過ごさて頂くというような事になってきた。食べる資格もない私だけれども、食べさして頂かん訳にはいかんから、お許しを頂いて、一日一碗の粥と決めたから、一碗のお粥を食べられないという事はなかった。それと家族をあげてそうだった。
 もうお父さん、明日はいよいよ食べるものがないですよと家内が言うような事は何時もであった。もうよかよか今夜頂けとけば、これだけでも有難い、明日は明日の風が吹こうぞ言えれる自分がそこにあった。いわゆる確信ですねぇ、神様が見殺しにはしなさらん、と言ったようなものも勿論ありましたでしょう。
 そこにはね、そこにふさわしい、何と神様の働きの微妙な事、もう恐れ入ってしまという、又あくる日には又食べものが・・・・。
 これは食べものだけの事ではないですよ、他の事全てがそうだったんですけれども食べものの事だけでも、それにはそこに丁度ふさわしい頂きものがちゃんと用意して下さった。もうそういう時にです、只々恐れ入ってしまうという日々であった。
 いわゆるピッタリと私に合うた。私共一家につう合うた生活がなされてくるようになってきた。そこから例えばお育てを頂いて、少しづつ育てられるに従って、着るものだけではない、食べるものだけではない、住まわせて頂くところだけではない、その衣食住の全てがです、一段々私の言うならば、生き方と言うか、私に一番ふさわしい、見合うた、ピッタリとくるおかげが、そこには何時の時代にも、椛目合楽を通して考えてみますと、そういうおかげを頂いて来た。
 どうでしょう、私共が引き上げて帰って来た時に、神様にお願いをして本当に只、一生懸命お願いをして、おかげを頂いただけだったら、現在の合楽も開けておりませんでしょうし、それは何時も広大なおかげを頂きながらもです、何とはなしにうつろなと言うか、何とはなしに空恐ろしいと言うか、いわゆるピッタリとしたものではない、おかしさといったものが何時も伴うとったであろうと私は思う。
 私は合楽の信心はね、どうでも本当にここのところにお互いがぎり々自分というものをみきわめさせてもろううて、そこからピッタリと、それにふさわしいおかげのところから発足して行くというような信心にならなければならないとこう思う。
 そこからね、天地の大徳、言うならば天地自然、大自然の働き、その大自然と小自然であるところの私共、親神様であるところの天地金乃神様と、人間大坪総一郎という一氏子の交流と言おうか、その大徳という事を知らされん訳にはいかん、何時も神様の恐れ入った働きをですねぇ、なる程、我が身は神徳の中に生かされてあるんだなあという事を、言わば体認してきた。自分の信心の度合いと言うか、程度に応じておかげがだんだん進んで参りました。
 天地の開ける音をまず聞くための精進と言おうか、それは何と言うても、まず天地の大恩がわかりたいと言うただけじゃいけんから、それはなかなかわからん、話を聞けばわかるけれども・・・・・いわゆる自分の身にピッタリというような、わかり方が出来んのです。そこでです、私は本気で、自分を見る事自分を見る事という事になるのじゃないかと思います。
 そこから、信心態度と言うか、生活態度も変わってくるでしょう。自分がわかれば・・・・・。そういう心の状態になりますとです、神様がね、本当にそれこそピッタリとしたおかげを下さる事が出来る。そのおかげの中になる程我身は神徳の中に生かされてあるんだなあ、御神徳の中にあるんだなあという、いわゆる信心の妙境、信心の喜びの中に浸らせて頂く生活が出来る。天地の大恩もわからせてもらう。
 そこからその大恩に報い奉る生活が出来るようになる。天地の大恩に報いる生活が出来るようになって参りますとね、どういう事になるかというと、いよいよ御神徳、神様の御信用がいよいよ篤うなってくる。
 これはもう話を聞いただけでもわかるです。神様の御恩徳を悟らしてもらい天地の大恩がわかって来た。それも身にピッタリ合う程しにピッタリと感じる事が出来るようになっている。なる程、我身は神徳の中に生かされてあるという実感が、日々生活の中に頂けてくる、そういう生活が出来てくる、だから、そこに安座しとくという事が出来なくなってくる。そこからです、その大恩に報いさせてもらわなければという私共の人間の本当の生き甲斐と言うか、神の大恩を知り、天地の大徳を悟りそこからその大恩に報いさせてもらう生活、そのものが、私共の生き甲斐とわからせてもらう程の信心が出来るところに、神の信用、御神徳がいよいよ身についてくる、これが当然です。
 神の大恩に報いる生活をさせて頂こうと言うのですから・・・・・そこから限りないおかげが進展し、徳の向上がある訳です。いわゆる神恩報謝と簡単に申しますけれども、神の恩が本当にわかってからの報謝でなければならん。二、三日前公子さん(内田公子、修行生)が、ここでもう何年になりますか、修行させて頂いておりますがもうそれこそ倒れ転びで修行しとります。倒れ転びの度ごとに自分がわかっていきよる。もう親先生、私はどうしてこういう汚いものが出てくるだろうかと、何時もそれをお取次頂くのです。いわゆる自分自身を見極める事が出来てきよる訳です。
 だからそこにいわゆる他の悩みじゃない、そういう信心の悩みが深刻になってくる もう本当にこれが取れるなら、どんな修行でもさせてもらうというような、修行精神もだんだん出来て・・・・・。
 最近は、今迄は母にあれがありません、これが無いと言うていちいち言うて買うてもらいよったのが、此頃は母に言わずにです、もう本当に不思議な不思議なおかげを頂いております。エプロンが古くなったと思うと誰かが下さる。はき物がないと思いよると、誰かがはき物を下さる、というようにです、いわゆるそのところに、どういう実感を頂いていきよるかと言うと、自分の身にピッタリきておるものを感じておる訳です。信心修行にその事だけに打ち込んでおるのですから・・・・。
 そういう繰り返しが出来る時にです、私は翻然としていわゆるもっともっと見極められた時にです、不平もなければ不足もない、只有難とうて有難とうてという境地が必ず開けてくるでしょう。だから公子さん、あんたが今、そういう有難うて有難とうてというところが開けてくるなら、一寸早すぎる。今しっかり、自分の内容にあるもの、いやあんたの内容だけではない、内田家の内容にあるものまで、あんたが例えばお粗末であるところ、御無礼であるところは、お詫びをしたり、そのお取り払いの為に、あんたは修行しよるとじゃからと言うて話た事です。
 天地の開ける音がかすかに聞こえてきた、目をさますというところ迄いっていない眼がさめたらね、そこには不平ども、不足ども言うちゃ勿体ない世界がある訳ですから、自分と言う者がもっともっと本当にわかったら・・・・・
 資格のない私、いわゆる、私が食べる資格もなけれは、着る資格もない程しの、見極めをさせて頂きつつあるようです。そこから信心が成長してくる。
 今天地の開ける音を聞いて眼をさませという事はね、今日私が申しましたような内容をもって、天地の開ける音を聞くのだと、その天地の開ける音を聞く為に、まず自分を知れ、自分がわかれと。
 先日私事務所に参りましたら、若先生が学院に行っております時に、学院でお話をしております、そのお話がテ-プに入っとったのを送って来たのを、伊万里の竹内〈が聞かせて、これは有難い事だ、若先生の御信心そのままがこの中にあるのですからこれをパンフレットにさせて頂きましょうと言うて小さい冊子にして、その時御たい大祭の御直会に皆んなに、さしあげたのが一冊そこにあった。
 改めてそれを読ませて頂いて、有難いなあと思うた。その最後のところにですねぇとにかく本当に神様がわかりたい、わからして下さいと、何日も寝らずにいろいろ修行した時代の事が書いてあります。
 私にここに本当の神様を見せて下さい、見せて下さったら、私はそのお礼の為に、日本国中の教会を行脚して回りますという事を言うております。日本国中の教会を歩いて回ると、神様がわかりたい、本当の神様がわかりたいという一念はですねぇ、それは決して、オ-バ-じゃあない、その時の勝彦(長男、副教会長)の実感は本当にそうだったろうと思います。
 だからその時に、本当に神の声を聞かせて下さったり、いろんな姿をその時に勝彦にもし与えておったら勝彦は、本当にその事をやってのけただろうと思う。けれどもまあその時に、本当の神様がわからなかったから、それをせんで済んだのですけれどもね、そして最後にです、とにかく親先生が教えて下さるその教えを、行ずる以外にはない、そこから自ずとわかってくるんだと、いう事を聞いて、それを行の上に表していこうというふうに言うております。
 ですからね、私共が本当にそういう、今天地の開ける音を聞いて眼をさまさせて頂くと、そこには天地の大徳、いわゆる神の大恩がね、そこにわからして頂く事の為の修行なのです、というような意欲が燃えてくる、そういう意欲をもってです、自分という者をながめなければ、自分という者はわかりはしません。
 只自分を見とったんでは、本当のぎりぎりの自分という者は見極める事は出来ません。まず手はじめとして、天地の大恩がわかり、大徳を悟らしてもらう、その一番手近なものは、まず自分自身という者を、ぎりぎり見極めるという事から、その難儀というか、困った事が世間のせいにしたり、人のせいにしたり、もうとんでもない事なんですよね。ですから、それをいよいよ自分の内容に、そういう難儀の元がある事を本気でわからしてもろうて、そういう、取り組み方、天地の開ける音を聞いて、いよいよスッキリと眼がさめる程しのおかげを、頂かてもらわなければね、金光様の御信心を頂いておる本当の値打ちはない。
 けれども、金光様の御信心を頂いておっても、天地の開ける音も聞かずに只御願いをしておかげを頂いた、広大なおかげを頂いた、と言うておるけれども、そのおかげの為に、かえって難儀をしている例は沢山あるのですから、だから本当に、自分の身にピッタリくるおかげ、自分の家にふさわしいおかげ、そういうおかげの頂けれる信心をです、日々実証していかねばいけません。
                 どうぞ。